人間関係学科のコア(核)
  
    「認知」「行動」「評価」のスパイラル
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(「教える」ってことがあたりまえ?)
 教育の世界においては、長年、『教育は「教えること」』という概念が一般的でした。というより現在でも一般的であると言った方がいいかもしれません。特に1990年代中盤までの、いわゆる「成長社会」においては、社会の「成長」あるいは経済の「成長」に貢献するためのスキル(技能)を身につけさせるために「教える」、あるいは、そんな社会に適合する規範意識を「教える」ということで、その社会を担う人材というものを「育成」してきたのだと思います。これは、近代社会の幕開けともいうべき明治維新後の教育から、1990年のバブル崩壊をむかえるまで、脈々と受け継がれてきた概念です。学校では教員は子どもに対して「教え」、子どもは教員から「習う」ということが、あたりまえの時代だったのです。

 人間関係学科のコア(核)は、このあたりまえの概念に疑問を投げかけます。

(人間の成長は無限につづく)

 これまで、学校教育の中では、人間が成長していくプロセスというものを正面から教育課題として取り組んではきませんでした。つまり、人間の成長は無限につづくのですが、それを促進するためのアイテムを教育課程の中に組み込みこんでいないということなのです。人間は生まれたときは、絶対依存の状態にあります。それが、大人の保護と支援と愛情によって、徐々に心が発達し、様々なスキルを身につけていきます。これが家庭教育や学校教育の役割です。そして、自分自身の行動や行為に対するフィードバックを受け取りながら、自律できるあり様にまで達することができれば、人間は主体的なあり様に到達しつつあると言えます。つまり、

「認知」…自分は何者であるのか、自分の状態はどんなものであるのか、自分の目標はなのか、自分はどんな行動を起こしたのか、自分は目標に対してどれくらい達成できたか、自分の次の目標は何なのか、等々を認識できる力を「認知」という概念であらわす。

「行動」…自分にとって好ましい行動を想像し、それらを行動化する。さらに、自分自身が想像した行動を体験することにより、現実の自分の行動から一歩進んだ感じ方を得るための自分自身への働きかけを「行動」という概念であらわす。

「評価」…自分の行動の結果や、自分のまわりで起こったことに対して、自分が感じたことを客観的に認識でき、それらを受け入れ言語化していくことを「評価」という概念であらわす。

という、「認知」「行動」「評価」がスパイラルでもって成長のプロセスとして動いている限り、主体的であり成長し続ける人でいることができます。

(家庭でも学校でもファシリテーションを)
 ファシリテーションは、この「認知」「行動」「評価」のスパイラルを促進します。これまで、「教える」という概念は、知識や問題解決の方法を伝達するという領域を超えることができませんでした。しかし、ファシリテーションでは、伝達するだけではなく、人間の成長を促進するための援助を行うのです。「成長社会」が終わり、「成長社会」において大きく社会を囲んでいた枠組みがなくなってしまった今、学校教育では、すべての領域において、子どもたちが自学自習、自己陶冶を可能にする援助がより必要になったということなのです。そういう教育を実践していくためには、教員や指導者自身が「認知」「行動」「評価」のスパイラルを実践している人でなければなりません。例えば、主体的な人は、相手をほめる事で、自分自身が前向きな考えを持つことができます。主体的な人は、困難に際しても、ポジティブに考えることができます。主体的な人は、自分の行為に意味を込めることができます。主体的な人は、目的や目標に向かって、積極的な時間管理と時間活用ができます。このような望ましいあり様というものを、まず、教員や指導者が獲得しなければならないということなのです。

つまり、「認知」「行動」「評価」のスパイラルに基づいた主体的な人は、どんな「教え方」をされたとしても、成長していくことができるのです。ですから、家庭教育や学校教育においても、方法論もさることながら、それ以上に、このような思考や行為のあり様が大切になってくるのです。人間関係学科は、そういう学びを実践していきます。

*産業界では、古くからからPDCAサイクル(Wikipedia)として生産管理や品質管理の業務を円滑にするために活用しています。人間関係学科では、人間のあり様という非常にベーシックなものを扱っているので、「認知」「行動」「評価」という人間の行為におけるベーシックな概念を使っています。