人間関係学科に関わる教員の資質

あいあいネットワークofHRS 深美隆司

人間関係学科とは

(文科省研究開発学校として)
 
松原第七中学校では、2003年〜2005年にかけて、文科省研究開発学校の指定を受け、人間関係づくりのための授業、人間関係学科(Human Relation Studies 略称HRS)の創設と、不登校生等が学校復帰するための支援に取り組んできました。さらに、2007年〜2009年にかけては、中学校区として校区の恵我小学校・恵我南小学校、さらに恵我幼稚園も含めた11年間の人間関係づくりのための授業、人間関係学科(幼稚園・小学校―「あいあいタイム」、中学校―「HRS」)を子どもの発達段階に応じたカリキュラムとして作成し、校区としていじめ・不登校の未然防止のための支援体制を確立したのです。その結果、「学校が楽しくなれば、ストレスが減る ストレスが減れば、不登校やいじめが減る」というパラダイムのもと、不登校生の減少といじめの未然防止という観点からの成果をあげてきました。



(社会の変容と子どもの危機)

 2008年のリーマンショック以降、労働人口の3分の1を占めていた期間労働者に対する「派遣切り」というものが行われました。それを象徴として、厳しい生活実態の深刻化が進行しています。また、今の社会が高度情報化社会へ移行していくうえでの弊害として、個人の成長における内的な空洞化が顕著となり、情報化社会における人間形成の面から様々な新しい問題が子どもたちに降りかかっています。そういうことを一因として、家族の形態も多世代同居の時代から核家族化へ、さらには、家族の一人ひとりが切り離されていく個族化の時代へと変わりつつあります。この社会の大きな変容の結果、全国の不登校生の数が1998年には12万人を突破し、以後現在に至るまで2001年の13万9千人を頂点にして12万人を下回ることは一度もありません。1991年には6万7千人だったことを考えると、数字の上では約1.9倍、出現率においては2.3倍にも増えています。2010年7月、15才から39才までの人たちの中には、ひきこもりが疑われる人たちが70万人、その傾向にある人が155万人という数字が内閣府から発表されました。その年代の人口比からすれば5.8%にもなる数字なのです。また同じ時期に、全国の児童相談所における相談件数が4万4千件を超え、過去最高の相談件数となったことも立て続けに報道されました。社会における虐待の意識が高まってきたことで、相談件数が増えてきたということは一定言えるのですが、1998年までは1万件以下であったことを考えると、件数自体がそれ以上急速に増大していることがわかります。つまり、1990年代中盤を境にして、社会全体の枠組みが大きく崩れ、その影響として生活の崩壊と家族の崩壊につながっているということではないでしょうか。人間形成において、これまでにない危機的な状況が子どもたちを襲っていると言っても過言ではありません。今の時代は学校が何もしなければ、子どもたちは大変なことになってしまう時代となっているのです。



(グループアプローチからガイダンスカリキュラムへ)

 1960年代後半から1980年代にかけて、構成的グループエンカウンターやアサーショントレーニング、グループワークトレーニングなどの老舗とも言うべき学校教育で生かすことのできるグループ・アプローチが成立しました。そして、2000年頃までに、プロジェクトアドベンチャー、ライフスキル教育、ストレスマネジメント教育、ソーシャルスキル教育、ピア・サポートプログラム等のグループ・アプローチ(集団での体験を通じて、人間的な成長を促す学び)が次々と生まれたのです。それを受けて、2005年以降、グループ・アプローチの成果を生かした学校教育レベルのガイダンス・カリキュラムが教育委員会や教育センターあるいは学校単位で作成され実施されてきました。行政レベルでは、さいたま市HRTプログラム、体系的指導プログラム(いきいきちばっ子プラン)、子どもの社会的スキル横浜プログラム等が、学校レベルでは、埼玉県上尾西中学校区の社会性を育てるスキル教育や松原市立松原第七中学校区の人間関係学科(小学校「あいあいタイム」、中学校「HRS〔Human Relation Studies〕の略)」)等があります。

 松原第七中学校区では、幼稚園・小学校・中学校にわたる11年間のガイダンス・カリキュラムを作成し実施してきました。




(ガイダンスカリキュラムとしての人間関係学科)

 松原七中の人間関係学科は「参加体験型」の授業です。様々なグループ・アプローチのエッセンスを取り入れ、主に「ソーシャルスキル」「出会いと気づきの力」「アサーティブな人間関係調整力+人間力」を育成していくものです。そして、その手法はファシリテーションに基づいた人間の主体形成にあります。つまり、子どもたちに起こった「気づき」を子どもたちが自己認知し、さらにそれを共有化することで、子どもたちは人間的な成長を成し遂げていくことになるのです。「認知」(わかる)→「行動」(やってみる)→「評価」(感じ方)というプラスのスパイラルを描いて、子どもたちの中に根づいていくことをねらいとしているのである。授業内容は、12のターゲットスキルに基づいた5つのパッケージで構成し、それぞれの授業が、「日常性」=普段の生活に生かすもの、「テーマ性」=テーマを絞って学ぶもの、「クロス性」=行事や取組にリンクしたもの、という3つの要素をもたせているのです。そして、最終的には人間の生き方として「依存的なあり様」の生き方を克服し、「主体的なあり様」の生き方をめざしていくものとなっています。




人間関係学科のコア(核)

  「認知」「行動」「評価」のスパイラル

(「教える」ってことがあたりまえ?)
 教育の世界においては、長年、『教育は「教えること」』という概念が一般的でした。というより現在でも一般的であると言った方がいいかもしれません。特に1990年代中までの、いわゆる「成長社会」においては、社会の「成長」あるいは経済の「成長」に貢献するためのスキル(技能)を身につけさせるために「教える」、あるいは、そんな社会に適合する規範意識を「教える」ということで、その社会を担う人材というものを「育成」してきたのだと思います。これは、近代社会の幕開けともいうべき明治維新後の教育から1990年のバブル崩壊をむかえるまで、脈々と受け継がれてきた概念です。学校で教員は子どもに対して「教え」、子どもは教員から「習う」ということが、あたりまえの時代だったのです。
 人間関係学科のコア(核)は、このあたりまえの概念に疑問を投げかけます。



(人間の成長は無限につづく)

 これまで、学校教育の中では、人間が成長していくプロセスというものを正面から教育課題として取り組んではきませんでした。つまり、人間の成長は無限につづくのですが、それを推進するためのアイテムを教育課程の中に組み込みこんでいないということなのです。人間は生まれたときは、絶対依存の状態にあります。それが、大人の保護と支援と愛情によて、徐々に心が発達し、様々なスキルを身につけていきます。これが家庭教育や学校教育の役割です。そして、自分自身の行動や行為に対するフィードバックを受け取りながら自律できるあり様にまで達することができれば、人間は主体的なあり様に到達しつつあと言えます。つまり、
「認知」−自分は何者であるのか、自分の状態はどんなものであるのか、自分の目標はなのか、自分はどんな行動を起こしたのか、自分は目標に対してどれくらい達成できたか、自分の次の目標は何なのか、等々を認識できる力を「認知」という概念であらわす。
「行動」−自分にとって好ましい行動を想像し、それらを行動化する。さらに、自分自身が想像した行動を体験することにより、現実の自分の行動から一歩進んだ感じ方を得るための自分自身への働きかけを「行動」という概念であらわす。
「評価」−自分の行動の結果や、自分のまわりで起こったことに対して、自分が感じたことを客観的に認識でき、それらを受け入れ言語化していくことを「評価」という概念であらわす。という、「認知」「行動」「評価」がスパイラルでもって成長のプロセスとして動いていく限り、主体的であり成長し続ける人でいることができます。




(家庭でも学校でもファシリテーションを)

 ファシリテーションは、この「認知」「行動」「評価」のスパイラルを促進します。これまで、「教える」という概念は、知識や問題解決の方法を伝達するという領域を超えるとができませんでした。しかし、ファシリテーションでは、伝達するだけではなく、人の成長を促進するための援助を行うのです。「成長社会」が終わり、「成長社会」において大きく社会を囲んでいた枠組みがなくなってしまった今、学校教育では、すべての領域おいて、子どもたちが自学自習、自己陶冶を可能にする援助がより必要になったということなのです。そういう教育を実践していくためには、教員や指導者自身が「認知」「行動」「評価」のスパイラルを実践している人でなければなりません。例えば、主体的な人は相手をほめる事で、自分自身が前向きな考えを持つことができます。主体的な人は、困難に際しても、ポジティブに考えることができます。主体的な人は、自分の行為に意味を込めることができます。主体的な人は、目的や目標に向かって、積極的な時間管理と時間活用ができます。このような望ましいあり様というものを、まず、教員や指導者が獲得しければならないということなのです。
 つまり、「認知」「行動」「評価」のスパイラルに基づいた主体的な人は、どんな「教え方」をされたとしても、成長していくことができるのです。ですから、家庭教育や学校教育においても、方法論もさることながら、それ以上に、このような思考や行為のあり様が大切なってくるのです。人間関係学科は、そういう学びを実践していきます。

*産業界では、古くからからPDCAサイクル(Wikipedia)として生産管理や品質管理業務を円滑にするために活用しています。人間関係学科では、人間のあり様という非常にベーシックなものを扱っているので、「認知」「行動」「評価」という人間の行為におけるベーシックな概念を使っています。


人間関係学科の3要素

    ・ソーシャルスキル
    ・「出会い」と「気づき」の力
    ・人間関係調整力+人間力

(ソーシャルスキルはすべてをあらわす概念)
 人間関係学科では、社会生活において、幸せな人生を送ることができることをめざしいます。ソーシャルスキル (Wikipedia)は、そんな幸せな人生を送っていくために、必要な技能であるということができます。ですから、子どもから大人までどの時点においても社会生活において必要な技能としてソーシャルスキルを位置づけることができます。例えば、小学校低学年において、遊んでいる何人かのグループに近づいた子どもが「(遊びに)いれて」と言える、独りぼっちの子どもがいたら「いっしょにあそぼ」と言えるというようなレベルから始まります。さらに、会話をしている場面で、相手の顔を見て「へー」「そうなんですか」と、あなたの話を「聴いているよ」、あなたのことを「受けとめているよ」ということを表す傾聴スキルなどにつながっていきます。そして、さらに、ストレスが強まったり、怒りの感情などがあふれてきたときに、そういう自分や、そういう感情を適切に対処するストレス対処や感情対処などに発展していきます。最終的には、小学校高学年や中学校段階において、相手の気持ちを想像し、共感しながら、自分の主張を述べていということを通じて、相手との折り合いをつけていくことができる人間関係調整力へと育っていきます。また、もめごとや争いなどの紛争を解決する力(メデュエーション)も人間関係調整力のひとつであるということができます。中学校3年生くらいから高校生くらいになると、個人と個人の力をあわせて相乗効果を生み出す力へと成長していきます。プロジェクトやNPOをたちあげたり、起業したり、何か新しいものを産み出していく人間力として完成していくのです。
 しかし、一般的にはソーシャルスキルを土台として、「出会い」と「気づき」の力や人間関係調整力や人間力が育成されていくというふうに理解されています。当然、この考え方に松原七中校区の人間関係学科も立脚しているのですが、本当はソーシャルスキルとう概念の中に「出会い」と「気づき」の力、人間関係調整力+人間力というものが含まれていると理解するほうが、正しい理解だと思います。つまり、整理する意味合いで、ソーシャルスキルを土台として「出会い」と「気づき」の力、人間関係調整力+人間力を積み上げていくという理解をしますが、それぞれの間の線引きというものがないということなのです。



(心を育てる「出会い」と「気づき」の力〔エンカウンター&アウェアネス〕)

 基本的なソーシャルスキルを使いながら人間関係をつくっていくと、そこから生まれくるコミュニケーションがフィードバックとなって自分に還ってきます。それを積み重ねていくことで、自己概念とか自己意識と言われるものが心の中にできあがってくるのです。これを人間の枠組みというふうに考えてもらってもいい思います。人間の枠組みはコミュニケーションや積極的な学習や様々な経験を通じ形成されていくものです。この人間の枠組みや心のなかが大きく深くなればなるほど、「人の気持ちがわかる、想像できる力」つまり共感性というものが育ってくるのです。心の成長のプロセスである「認知」「行動」「評価」のスパイラルの出発点である「認知力」を高めていくためには、「評価」から「認知」に至る部分をいかに言語化して客観化きるかというところが大切になってきます。つまり、感じたことを無意識のまま終わらせるのではなく、いかに言葉として自分の中に残していくのかということなのです。「出あい」と「気づき」の力は、この点において重要なのです。人間関係づくりの授業を通じてまわりの人々や出来事に出会い、授業での関わりを通じて起こった心の変化や感情の変化にいかに「気づき」、それをいかに自分のものにしていくかということです。そして、最後には、「気づき」よって成長した自分自身と「出会う」のです。そのことを可能にしていく力こそが「出い」と「気づき」の力だと言えるでしょう。
 実際の授業においては、トーキング系の自己開示のもの(すごろくトーキングルーレットトーキング等)にはじまり、グループ・エクササイズのほとんどは、この「出会い」と「気づき」の力を育成するものであると言っても過言ではないでしょう。一般的には小学校3年生くらいから、「認知」力というものが成立しはじめると言われています。また、ふりかえりもできるようになりますし、ある程度のフィードバックを還すこともできるようになります。人間関係学科において、子どもたちは、フィードバックを還し合うとを通じて「気づき」を積み重ねていきます。この積み重ねが、子どもたちの自己概念・自己意識を育て、人間の枠組みを広げていくのです。つまり、心が育っていくのです。



(人間関係調整力+人間力が個を育て、相乗効果を発揮する)

 人間関係調整力と人間力を育てることが人間関係学科のゴールです。人間関係学科において、人間関係調整力を身につけていくためのアイテムはロールプレイングになります。「認知」「行動」「評価」の人間の成長のプロセスという部分で言えば、「行動」する力を強化していく部分にあたります。
 人間関係調整力を育てるロールプレイングにある基本思想は、アサーティブネス(Wikipedia)です。−参考資料―:「篤姫」とアサーション(校区研究開発HP)− アサーティブネスは、自分を大切にして、相手のことを想像し、自分の主張をするということですが、その時に「折り合いをつける」ということが必ず必要となってきます。つまり、相手も自分も大切にできるWin&Winの思想であり、お互いの人権を大切にできるものであり、折り合いをつけることによって相乗効果を期待できるばかりではなく、お互いの信頼関係を構築し、深めることができるものなのです。ですから、アサーティブネスというものは、単なる技法にとどまらずに、人間の思想と行動を規定するあり様ということに関わってくるのです。人間のあり様は、大きく分けて「攻撃的」「受身的」「アサーティブネス」という三つのあり様に分けることができますが、「攻撃的」&「受身的」は『依存的』、「アサーティブネス」は『主体的』であると言えます。
 「出会い」と「気づき」の力で心を育て、人間関係調整力によって周りとの信頼関係を築いていくのです。さらに、このようにして培われた力は、キャリアにおける学びと併せて、総合的な人間力としてあらわれることになります。この人間力が新しい社会を築き、持続発展可能な世界をつくっていきます。(参考:持続発展教育−文科省HPより)




人間関係学科 12のターゲットスキル

 ・松原第七中学校区人間関係学科では12の子どもにつけさせたい力をターゲットキルと呼んでいます。一つひとつの授業には必ずターゲットスキルを設定しています。

自己信頼→自分の長所や短所を正しく判断し、自分のことを受け容れることができる 

共感性→相手の気持ちや行動を想像することができる 

自己管理力→自分の生活を、自分の目標のもとにコントロールすることができる 

対人関係→まわりの人と適切な関係を築くことができる 

境界設定→自分と他人の間に適切な距離を置き、自分らしさを表し、相手を尊重できる 

コミュニケーション力→いろいろな人と適切に対話でき、創造力を発揮できるコミュニケーションを使える 

ストレス対処→ストレスに対して適切なコントロールができ、さらにストレスを軽減することができる 

感情対処→喜びや怒りや悲しみなど、自分の中でわき起こったすべての感情を認めることができ、それらの感情に対して、適切なコントロールをすることができる 

決断と問題解決→身のまわりに起きたことや、自分自身の課題に対して、自らが考え、取り組むことができる 

創造的思考→自分が取り組んだことや、行動がもたらす様々な結果について想像することができる 

批判的思考→自分が取り込んだ情報や、自らの経験を客観的に分析することができる 

情報活用力→まわりからの情報を積極的に取り入れ、物事の創造や問題解決に活用できる 
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*松原第七中学校区の12のターゲットスキルは、WHO(世界保健機関)が提唱している10個のライフスキルをもとにつくっています。

 参考 10個のライフスキルについては、GENKIPOLITAN というサイトの(http://www.genkipolitan.com/life/skills.html)というページに詳しく説明してくれていますので、どうぞ読んでみて下さい。



人間関係学科の3側面

   ・日 常 性
    ・テ ー マ 性
    ・ク ロ ス 性

 人間関係学科は、@日常性、Aテーマ性、Bクロス性 の3つの側面を備えています。
   松原第七中学校24期生実施プログラム(2007〜2009)

 松原第七中学校の人間関係学科は、学校で実施するガイダンスカリキュラムです。「ガイダンスカリキュラムは,すべての児童生徒の基礎的ライフスキルの発達を目的とし,統的かつ計画的に,児童生徒のライフスキルを育成する,開発的・予防的な教育活動でる。」と東京理科大学教授、日本生徒指導学会副会長の八並光俊氏は、「ガイダンスカリキュラムの広場」において述べておられます。
 ガイダンスカリキュラムは学校において展開される授業ですので、子どもたちの発達段階を考慮した系統性や順次性をもったものでなければなりません。松原第七中学校区人間関係学科の「あいあいタイム」(幼稚園・小学校)、「HRS」(中学校)は、11年間の子どもの成長に沿ったカリキュラム・プログラムをめざしています。さらに、松原第七中学校の「HRS」は、子どもたちの学校生活に活かされ、教科学習や特別活動や道徳の時間や総合的な学習の時間とともに、子どもたちの成長に寄与するために、人間関係学科の内容に3つの側面を持たせています。それが、@日常性、Aテーマ性、Bクロス性なのす。



(日常性とは)

 学校や地域や家庭において、子どもたちがもっている人々との関係性に、効果的な側面が強い授業であるということです。これは、主に自己開示を行うトーキング系の授業(『わたしのじゃがいも』 『さいころトーキング』 『松原七中の良いところインタビュー』等)なります。トーキング系の授業は、まず、自分自身のことを語るために、自分自身のことを言語化しなければなりません。言語化する段階で、無意識の部分が意識をされ、語るなかみの何%かは、新たに意識化・言語化されたものが加わります。これは、人によって差がありますが、子どもたちのこころが開かれた状態であればあるほど、新たな自己認識が加わっていくものです。逆に、自己肯定感が低く、自分自身のことを閉じようとするベクトルが強い子どもは、意識化されていることすらも出そうとはしません。ですから、グループや班というひとつの枠組みの中で、お互いを出し合うことの意味があるのです。そして、このような自己開示は子どもたちの中に新たな「気づき」を引き出すことができます。仲間の知らなかった部分を知ることのよろこびや、自分の枠組みにはなかった考え方にふれることで、人間としての枠がひろがっていくのです。さらに、このうえに相手の話を『聴く』というスキルを身につけていけば、自己開示の相乗効果というものが、格段高まっていくことでしょう。
 このようにして、子どもたちの人間としての枠がひろがり、こころが育ってくれば、自己肯定感の低さから生じてくる「攻撃性」や「受身性」というものが、徐々に弱まってきます。(参考:「主体的なあり様と依存的なあり様」長野県公式HP)つまり、不登校やいじめの原因となるような要素というものが、徐々になくなってくるということになるのです。このような効果は、人間関係学科の授業すべてに渡って言えることです。それは、参加体験型の学習においての必須項目として、授業の終わりには必ず「ふりかえり」〔言語化〕と「シェアリング(わかちあい)」〔共有化〕を行うからです。これらの作業を通じて、どもたちの自己開示が行われ、相手を大切にする「傾聴スキル」も養われます。そして自分が大事にされていることに気づいた子どもたちは、また、さらに相手を大事にしよと思えるようになるのです。このようなプロセスを通じて、子どもたちひとり一人が、こころを開こうとする姿勢やあり様というものを身につけていきます。こころが開けば、より活発に子どもたちの主張がなされ、それが「折り合いをつける」という領域に達してきます。折り合いをつけながら、新たなことへ取り組んでいくことで、それは、相乗効果というものにつながっていくのです。相乗効果を発揮できる人間関係は、様々なことに新しい一歩を踏み出すことができるようになっていきます。



(テーマ性とは)

 人間関係学科は、子どもたちどうしの人間関係を良好にしていくための授業です。人間関係が良好な状態になっていくためには、良好になっていくための手立てである「コミニケーション」についての理解を深めることが必要となってくるのです。そして、さらにつきつめていけば、「コミュニケーション」のもとになる人間の「感じ方」や「自己表現」ということになります。日常性のところで述べた人間の枠組みの形成についての理解にふみ込むことが、必要となってくるのです.。そこで、複数の授業を一つのパッケージとしてまとめ、テーマ性を持たせます。場合によっては、教員のローテーションを組んで行うこともあります。中学一年生の一学期には、基礎的なコミュニケーションに関わるもの。二学期にはストレスマネジメントから、アサーションを経てメデュエーションへ。二年生一学期には発展的なコミュニケーションからアサーションとメデュエーションへつないでいき、二学期には感情対処へとつなげていきます。三年生においては、一学期に境界設定を、そして二学期にはリフレーミングを含めた自己管理へと進んでいきます。一年生の基礎的コミュニケーションに始まり、三年生の自己管理までのテーマを踏まえて、個人の力としての完成をめざしています。細かくテーマ設定を見ていくと、実は一つのパッケージにおいては、アサーションにつなげていっているということが、重要なポイントになってきます。つまり、三年間のプロセスを通じて、アサーティブなあり様の人間形成をめざしているのです。



(クロス性とは)

 道徳の時間における価値項目が、学校教育の全領域において浸透させられるべき価値観であるのと同じように、人間関係学科での学びは、教科授業・特別活動・道徳の時間・総合的な学習の時間をはじめ、学校教育の全領域において活かされなければなりませんし、すべての領域での学びが人間関係学科の学びにつながっていかなければなりません。これが理想の考えなのですが、実際は、人間関係学科でのあり様と同じあり様で教員が教科授業に臨むことは、なかなか難しい課題ではあります。それは、人間関係学科がファシテーションであるのに対し、松原第七中学校においても教科授業となると「教授する」いう姿勢が頑として存在しているからです。しかし、8年以上も人間関係学科を実施しいると、結構自然にファシリテーション的な教授法というものを教員がからだで覚えてしまっているケースもあります。しかし、公立学校の宿命として、教員の異動というものついてまわりますので、常に毎年一からという感覚も否定することができません。
 本来は、教員が教育のどの局面においてもファシリテーションの姿勢を持っておくべきですが、二歩前進、一歩後退というようなことを繰り返しながら、教育内容の積み重ねがわれているわけです。そういうこともあり、あえて人間関係学科においては、特に行事を含む特別活動や総合的な学習とリンクをさせています。俗な言い方ですが、「すぐに役つスキル」ということです。本来なら中学校では三年間の積み重ねを通じて、じっくり取り組んでいかなければならないのですが、中学校の3年間というものは、本当に短く、それぞれの時期が失敗させることが出来ない一発勝負的な側面を持っています。ですから様々なものとリンクをさせた内容というものを人間関係学科で取り組んでいるのです。例えば宿泊の取組において子どもたちが自分自身の課題を出し合うクラスミーティングにリンクさせて、一年生の一学期に「こんなときどうした?」、二年生の三学期には「クラスミーティング・シミュレーション」などを実施しています。体育大会の前には、「松七★フレンドパーク」を、進路選択が押し迫った三年の二学期には、「私のストレス対処法」などを実施しています。

 このように、松原第七中学校では、人間関係学科に@日常性、Aテーマ性、Bクロス性という意味づけをしながら実施しているのですが、実際には、これらも「主には・・・」ということで、厳格に区別する必要はありません。3つの側面がそれぞれ関係しあい、それぞれの要素が絡み合っているというところが実際なのですから。ただ、教員と子どもちが学びを共有するにあたり、それぞれの授業への意味づけというものが、学びを深める上において重要であるということを忘れてはいけません。



教員や指導者に求められる力
    
  ・子どもたちをホールドする力
 ・子どもたちどうしの関係性やルールをつくる力
 ・子どもたちに気づきを引き起こす力
 ・子どもたちの気づきに気づく力
 ・子どもたちへ介入(支援)する力
 ・子どもたちの中で起こったことをとりあげる力
 ・授業でビルドアップされた気づきを大切にする力
 

 松原第七中学校の場合、人間関係学科での教員のあり様が、教科授業や生徒指導、あいは不登校生等への支援の領域へと徐々に広がっていきました。人間の心の成長は、「認知」→「行動」→「評価」のスパイラルで成し遂げられていきます。これらの3つのコア(核)が一つでも固定観念などによって目詰まりすることなく、積みあげられていくことこそが人間の成長なのです。生まれたときは誰もが絶対依存の状態にあり、周りの人間の保護と愛情と適切なフィードバックにより、「依存的なあり様」から「主体的なあり様」へと育っていきます。義務教育の9年間というものは、まさにその変容するプロセスの9年間でなければなりません。要するに、はじめは誰もが空っぽである心を、なかみのある心に育てていくということなのです。なかみのある心は、人間としての自立を促し、自立する力をそなえることができます。なかみのある心は、自分自身をちゃんと見つめ、将来の目標と目の前の課題をつくることができます。そして、自分の課題を達成できたかどかということに客観的な評価ができるのです。
 よく言われる「自己肯定感」とか「自尊感情」とか「自己効力感」とか「自己有用感」とかは、すべてこのなかみのある心から出てくるあり様なのです。ですから、教育現場は、項目を教条的に教えたりすることは、客観的には、その項目を子どもたちに押しつけ「知識」と「あり様」との間にどうしようもない乖離を招いてしまうことになるのです。ですから、教員は、子どもたちの心から湧きでた感情や行動が、心のなかみへとつながっていくように、フィードバックを還していくのです。つまり、人間関係学科の授業においては、子どもたちのつぶやきや、ちょっとした行動や行為に注視しながら進めてくのです。そのために、人間関係学科においては、次のような教員の具体的な力が必要なってきます。



1)
子どもたちをホールドする

 人間関係学科では、すべての子どもが自分のあり様を出発点として、授業に参加しています。人間関係学科を通じて体現された子どもの姿は、主体的な姿であれ、依存的な姿あれ、教員はそのあり様を受け止め、子どもたちに返していく(フィードバック)作業しなければなりません。そのためには、子ども一人ひとりを受け止めつつ、子どもたち全員を包み込んでいくこと(子どもをホールドする)が必要になります。

 「子どもをホールドする」という概念は、人間関係学科の授業において非常に大切な概念です。1時間の人間関係学科のはじまりからおわりまで、貫徹されなければいけない概念なのです。つまり、この「子どもをホールドする」という項目を、一番はじめにかかげているのは、人間関係学科の第一段階としてではなく、一番大切であり、授業中一貫してもっておかなければならない教員の力として、という意味があるからなのです。
 ホールド(hold)という英語は、「つかむ」とか「抱きしめる」とかいう意味を日本語にあてはめることができますが、まさに、その意味のとおりに、「子ども(の心)をつかむ」「子どもを抱きしめる(ように受け止めて、フィードバックを還す)」ということを表しています。
 つまり、1)以下にかかげている6つの力(・子どもたちどうしの関係性やルールをくる力・子どもたちの気づきを引き起こす力・子どもたちの気づきに気づく力・子どもちへ介入(支援)する力・子どもたちの中で起こったことをとりあげる力・授業でビルアップされた気づきを大切にする力)を発揮した結果、教員の中に備わっていく力であると言えます。これらの6つの力を人間関係学科で発揮していくことを通じて、子どもたち一人ひとりが教員から「自分は大切にされている」と感じるのです。この「自分は大切されている」と感じることが大切です。「自分は大切にされている」と感じることができれば、子どもたちは自然に自分自身を開いていきます。自分自身を開いていけば、自分自身のことを素直に表現し、考えを主張することができるようになるのです。子どもたち一人ひとりが、自分のことを素直に表現できれば、子どもたちどうしの中で「いろんな人がいるんだなぁ」という多様性を受け入れることができる素地ができます。そして、自分の考えを素直に主張することができれば、相手と折り合いをつけていこうとする力が湧でてくるのです。子どもの変化はまちまちで、一回の授業でこのように心を開いていくのではありません。教員のこの姿が、子どもたちへのモデルとなり、一人が二人に、二人四人に、四人が八人へという広がり方をしていきます。そして、最後にはすべての子どたちが「心を開く」ことへのハードルを越えていくのです。
 すべての子どもたちに、このようなあり様を実現できるのは教員だけです。「子どもホールドする」ということは、子どもに押しつけるものでもなく、子どもをコントローするものとは無縁なのです。「子どもをホールドする」とは、子どもの心を開き、子どの人間としての力を発揮させていくことなのです。




2)
子どもどうしの関係性とルールをつくる

 子どもたち自身がスムーズに心を開いていくために、授業の冒頭における子どもと教員や子どもどうしの関係づくりやウォーミングアップ(アイスブレーキング)を大切にしす。さらに、安心して心を開くためには、子どもたちどうしの中に、お互いが受け止めえる関係にあり、安心して自分自身を出せるルールの存在が必要となるのです。

 1)の項目にて「子どもをホールドする」という概念について述べましたが、この「子どもどうしの関係性とルールをつくる」という項目は、1)の項目の次にくる重要な項目になります。人間関係学科のような人間関係づくりの授業は、人間関係学科を含めた教育課程の中にある授業というもののラインナップで見ると「特別なもの」であり「一般的なもの」でもあるのです。それは、どういうことかと言いますと、人間関係学科は、他の教科と比べると根本的に人間のあり様を問題にしているという意味で、すべて教科の根幹にあたる部分を扱うことになります。例えば、教科授業の最中に、先生の授業内容が理解できていないときに、状況が許されれば、子どもたちは質問をします。この質問をするということはコミュニケーション力のひとつの現れであるわけです。質問をするということは、自分の理解を認知し、疑問に思うという段階を経て、教員が理解できるように自分の疑問点を的確に述べなければなりません。さらに、質問だけでなく、わからない時に「つぶやく」という行為も重要になってきます。「つぶやき」は理解したり疑問に感じたりすることに関わりなく、子ども自身の気づきが声となって出たものです。ですから、子どもは自分の「つぶやき」に対して、教員のフィードバックを求めていません。しかし、我々教員にとって子どもの「つぶやき」は、授業を深めていく上で大いに助かります。質問や「つぶやき」というものは、子どもたちの教科授業にとって欠かすことのでないアイテムであり、授業参加へのスキルなのです。このような力を集中的に養っていくという意味で、人間関係学科は「特別なもの」でありますし、教員や子どもたちが心を開いて参加し、心地よい気分にひたれるという意味でも「特別なもの」だと言えます。
 一方、人間関係学科がいかに「特別なもの」であったとしても、日常の日課の中に組み込まれた授業であるという側面も持っています。つまり、学級の雰囲気や、子どもどうしの関係性、あるいは子どもと教員の関係性をそのまま反映している「一般的な」授業でもあるのです。例えば、ほとんどの授業において、子どもたちは集中できずに、私語などの多い学級であったとします。そのような学級においては、人間関係学科の授業においても、子どもたちは集中できずに、私語などの多い姿というものを表すことでしょう。休み時間に子もどうしのトラブルがあったとします。すると、人間関係学科の授業の冒頭において、険しい顔をしたまま参加している子どももいるかもしれないですし、授業の最中にケンカをはじめる子どもも出てくるかもしれません。
 このように、人間関係学科の授業は、現実から離れた仮想空間であるとともに、現実問題を反映した現実空間でもあるのです。ここに、「子どもどうしの関係性とルールをつくる」必要性が出てくるのです。この「つくる」の意味ですが、初めからつくりあげるいうより、再構築するという表現のほうが合っているかもしれません。
 そこで必要になってくることが、「場づくり」ということになります。授業の内容によるのですが、子どもたちの日常生活をそのまま持ち込むのではなく、子どもたちが日常生活からエッセンスを引き出せるように、「場」をつくっていくのです。つまり、授業の初めに行うウォーミングアップやアイスブレーキングなどは、日常生活と人間関係学科をきっちりと分別し、人間関係学科の世界へと導いていくために、非常に重要な入り口になってくるのです。それと同時に、子どもどうしの関係と子どもと教員の関係をも、人間関係学科にフィットするようなものへと変換していくのです。人間関係学科にフィットすものとは、安心して自己開示ができる雰囲気への変換です。心地よい自己開示ができるための枠組みとルールづくりです。そのために教員は、テンションを上げて臨むこともあでしょうし、ロールプレイングの役柄になりきり、大胆かつ繊細に演じることも必要でょう。そして、それに必要な衣装やグッズを準備しなければならないこともあります。簡単に言うと、子どもたちを人間関係学科の世界に引きずり込んでしまうために、子どもどうしの関係性とルールを再構築するのです。

 よく言われることの中のひとつに「荒れている学校や、学級で実施することができるでしょうか。」というものがあります。この答えは、「場合によってはできますが、場合よっては非常に危険なものとなるでしょう。」ということです。つまり、子どもたちを人間関係学科の世界に引きずり込むことができれば可能ですが、そうでなければ不可能ということなのです。一般的には「荒れた」学校や学級では力による人間関係が支配しているケースが多いわけです。人間関係学科の基本は、最低限、一人ひとりの関係性がイーブンであるということが要求されます。そうでなければ、子どもたちは授業の中で、自己開示に対する攻撃により心的外傷を受けるケースが頻発しますし、そういう攻撃を恐れて、あえて自己に閉じこもるという選択をしてしまうからです。しかし、仮に「荒れている学校であっても、教員が一致し、学校として取り組むことができれば、実施は可能です。もし教員の個人的な取組で終わってしまえば、授業の系統性や継続性を持続させることは不可能です。三年計画くらいで、実践を積み重ねながら、プログラムや教材に検討を加えながら修正していくことで、より、その学校や学年にあったものになっていきます。一年目はしんどい思いをするかもしれませんが、人間関係学科を実施する観点で、子どもや教員の関わりを再構築していくことで、二年目、三年目と目に見えて成果があらわれてくるのはないでしょうか。すなわち、人間関係学科の実施を通じて、学校におけるすべての人関関係を再構築することで、徐々にではありますが、「荒れ」が収まってくるのです。
 それはなぜでしょうか。相手を攻撃したり、過度に受身になってしまう人間のあり様は、人間の心が満たされていなかったり、成長していないから現れてくるあり様だからす.。この攻撃的であったり受身的であったりという依存的なあり様というものを、人関関係学科の実施を通じて、心のなかみが備わった主体的なあり様へと成長させていくのす。自分を自己開示できる安心した人間関係と、まわりの子どもたちや教員から還ってくるフィードバックにより、心が少しずつ成長していくのです。この第一歩が、「子どもどうしの関係性とルールをつくる」ということであると言えます。




3)
子どもたちに気づきを引き起こす

 授業の中に組み込んだ様々な「しかけ」により、子どもたちは今の自分の行動やあり様に気づいていきます。さらに、まわりの仲間の行動やあり様や、まわりから返ってくるフィードバックにより、気づきは深まり、子どもたちの変容のきっかけとなっていくのです。このような気づきを引き起こすことのできる授業である必要があります。

 ウォーミングアップやアイスブレーキングを経て、いよいよ、授業の本題へと入ってきます。授業のはじめのインストラクション(Yahoo辞書)において、ねらいを共有したり、授業の手順やルールを子どもたちに提示していくのですが、授業がうまくいくかいかないかは、子どもたちに様々な「気づき」や深い「気づき」をいかに起こさせていくかいくことにかかっています。子どもたちの「気づき」を、子どもたち自身が言語化し、まわりと「気づき」を共有していくプロセスを通じて、子どもたちの中に「認知」としてうまれ変わっていくのです。「認知」は「行動」の源であり、「評価」の軸になるものです。つまり「気づき」は人間の成長のプロセスにおいて、欠かすことのできないはじまりの一撃であるのです。
 この「気づき」を教員の保護下のもとに、授業の中で引き起こさせます。例えば、スレスマネジメントの授業の時などでは、常識的に考えると到底できないような課題を与えて、プレッシャーをかけ、子どもたちにストレスを生じさせます。人間関係学科のひとつの原則として、子どもへの課題はユニバーサルデザイン(Wikipedia)に基づいたものでなけれならないので(子どもが今現在もっている力によって、大きく差を広げるものであっていけないということ)、実際には、子どもたちが課題に取りかかる寸前で止めます。そうやって引き起こしたストレスの一人ひとりへの表れ方のちがいから「気づき」を導いてくのです。すると、「(出された課題を)やらないんだ。」ということを知って、子どもたちの心の中に、「(やらなくて)ホッとした。」という感情が生まれたグループと「(やらくて)残念だった。」という感情が生まれたグループというように、大きく二つに分かることに気づくのです。感情に対処する力が「ない」とか「ある」とかということは、どいうことかと言うと、実は、心の中で起こった感情というものを、その時点では、普通、人はいちいち確認したり自覚したりしていないのです。人間は「刺激」→「感情」→「行動」というプロセスで刺激に対する反応をあらわすのですが、「刺激」と「行動」間にある「感情」に対処するスペースが「ある」か「ない」かで、「行動」が違ってくるのです。「刺激」によって生まれた「感情」を自覚し確認するというスペース(時間が長いとか短いという概念ではなく、意識しているスペースがあるか、ないかという概念です。)をしっかりとるということが大事になってくるのです。ですから、人間関係学科の授業おいては、あえて「刺激」を与え、そこから生まれた「感情」をしっかりつかみ、確認する訓練をするわけです。すると、子どもたちは「刺激」と「行動」の間にスペースをつくらないと、それこそ「感情的」な行動をとってしまう自分というものに気づいていきます。ですから、自分の中に、今どういう感情が生まれているのかということをしっかりと確認し、その感情を言語化して客観化することで、生まれた感情を、「何も恥ずかしいことはなくて、こういう感情を生み出しているのが自分自身なのだ。」というように、自分の感情を自分自身の姿として、客観的に受け容れることができるようになっていくのです。このプロセスはすべて「気づき」ということからスタートしているのです。「気づき」がなければ、行為自体を好ましいものに変容させることはできません。
 同じように、あいさつやマナーなどを扱うソーシャルスキルトレーニングや、もめ事解決などを扱うアサーショントレーニングなどで行うロールプレイングなんかも、この気づきを大切にしながら「認知」→「行動」→「評価」という成長のプロセスに子どもたちのせていくことになります。もちろん、自己信頼の力を養っていくトーキング系のエクササイズにおいても、自己概念をひろげていくということの源には「ああ、そうなんだ。」という気づきがベースになってきます。つまり、人間関係学科のすべての授業が「気づき」ベースでつくられているのです。
 つまり、子どもたちに「気づき」を起こさせるために、アイスブレーキングを含めた場づくりの段階からメインのエクササイズに至るまで、様々な「しかけ」を授業の中に散りばめていきます。子どもたちに「気づき」を起こすことができない授業は、人間関係学の授業であるとは言えないのです。




4)
子どもたちの気づきに気づく

 様々な「しかけ」を組み込んだ授業を通じて、子どもたちの中で起こっていることに対して、教員は全神経を集中しなければなりません。子どもたちの中に起こっている出来事こそが、それぞれのあり様や、そのグループにおけるそれぞれの子どもたちのあり様を表しているからです。子どもたちの一つひとつの行為や言葉や感情に敏感であることで、どもたちの気づきを感じとれることが必要なのです。

 実は、この「教員や指導者に求められる力」の3)の項目については、ある程度、授業の指導案やプログラムにおいてカバーすることができます。つまり、授業の指導案やプログラムに授業の「台本」としての性格の部分で、かなりの部分がカバーできるのです。指導案やプログラムがしっかりとしているものであれば、子どもたちに「気づき」を引きこさせることは、教員や指導者にとって案外ハードルが低いと言えます。逆に言えば、指導案やプログラムというものは、子どもの「気づき」を喚起するものでなければならなということになります。
 しかし、仮に、そのようなしかけのもとに喚起された「気づき」に、教員や指導者が気づかなかったらどうなるでしょう。小学生や中学生の子どもたちは、心の成長を遂げてくプロセス上にいます。心のなかみを自分自身が形成していく途上にあるということです。ですから、教員や指導者がせっかく「気づき」を引き起こさせるための授業に取り組んだとしても、その子どもたちの「気づき」に気づかなければ、子どもたちレベルのフィードバックの還し合いにとどまり(実は、これだけでも意味はあるのですが)、限られた時間でしか実施できない人間関係学科の授業が、非常にもったいないものとなってしまうのです。つまり、子どもたちのせっかくの成長のチャンスを生かすことができなくなるのです。つまり、教員や指導者が子どもの「気づき」に気づくということは、人間関係学科を実施する上で、最も力量が問われるところであると言えるのです。
 授業のねらいから生じる子どもたちに起こるであろう「気づき」に対し、教員や指導者の全神経を集中し、子どもたちの「気づき」に気づいていかねばなりません。さらに、子どもたちの「気づき」というものは、ねらい通りに起こることが多いのですが、ねらい上の、あるいはねらいからはずれた「気づき」というものが起こることがままあるのです。教員や指導者はねらいどおりの「気づき」に気づくことは、もちろん必要なのですが、実は、そうでない、あるいはそれ以上の「気づき」というものに気づくということが、人関係学科では重要になってくるのです。(この事については、「教員や指導者に求められ資質 1)開かれた人間であること」の項目でふれます。)
 教員や指導者が子どもの「気づき」に気づくには、指導案上にあらわされている発問に対する返答であったり、授業の終わりの「ふりかえり」や「シェアリング」が主な機会なるのですが、本来的に参加型体験学習・ファシリテーションなどでの教員や指導者の「気づき」への気づきは、子どもたちのつぶやきから得るところが大きいと言えます。つぶやきとは、子どもたちがほんとうに疑問に感じたり、心のなかにスト〜ンと落ちたりしたことが思わずつぶやきとなって現れてくるのです。あるいは、仲間や教員に対して、つぶやくように質問したり、つぶやくように同意を求めたりする場合もあります。つまり。体裁とか打算とか損得とか、そういうことからまったくかけ離れた、子どもたちの心から湧きでてくるものがつぶやきであるということなのです。このような子どもたちの心から出くる宝のようなあらわれを、できる限りキャッチしホールドするのです。このあわられに対して、教員や指導者がフィードバックを還していくのですが、それは直接還すこともりますし、直接還していても少し声を大きく出して、全体にあえて還す場合もあります。また、全体の動きをいったん止めて、100%全体に還す場合もあります。また、それをシェアリングまでとっておいて、最後に還すことも効果的である場合もありますし、他の子どもを通じて間接的に還す場合もあります。つまり、教員や指導者が子どもの「気づき」に気づくということは、何らかのフィードバックとセットであると理解していただけばれいいでしょう




5)
子どもたちへ介入(支援)する

 子どもたちの活動がルールに基づいたものになっているか、あるいは、子どもたちの活動が対等平等の精神に反したあり様を示していないかということに対して、教員は適切な介入(支援)を行わなければなりません。また、子どもたちの気づきを促進させていくような言葉かけや、問題提起を適切に行っていくという積極的な介入(支援)もさらに必要なのです。

 子どもたちへ介入(支援)するということの一番の意味は、子どもたちに安心・安全な場を保証するということにあります。人間関係学科の授業における子どもたちのあらわれというものは、子どもたちの自己開示に基づいた、子どもたちのありのままの姿です。これは、「ありのままの姿でOKですよ。」という場を教員や指導者がつくり出すことによて保証されます。このありのままの姿から生み出される子どもたちの発言や行動が、子もたちの気づきのベースになっていくのです。ということであれば、人間関係学科の場というものは、子どもたちが成長する場であると同時に、実はある意味、子どもたちにとって非常に危険な場でもあるということを、教員や指導者はしっかりと理解をしておかなればなりません。攻撃的な子どもは攻撃的に、受身的な子どもは受身的に、アサーティブな子どもはアサーティブに、ありのままの姿であらわれるということです。教員や指導にとって、ここが最も大変なところでありますし、最も重要なところであります。
 人間関係学科の授業を通じて得ることのできるすぐれた要素というものは、人間としての「心地よさ」や人間に対する「魅力」に気づくことができるということです。人間関学科の授業の中には、必ず参加体験型のエクササイズ(ワークショップ)が組み込まれています。個人で取り組むパーソナル・エクササイズもあれば、グループや班で取り組むグループ・エクササイズがあります。授業のねらいやルールは、インストラクションという形で子どもたちに伝えていくのですが、細心の注意を払ってインストラクションを進めていても、やはり、子どもですから、子ども一人ひとりのレディネスの違いにより、教員の意図がしっかりと伝わっていない場合があります。グループ・エクササイズの場合は、班の仲間からの働きかけにより、カバーできることもあるのですが、パーソナル・エクササイズの場合は、子どもの作業自体が別の方向へ行ってしまっている場合もあります。そういうこともあり、子どもたちがエクササイズに入り込んでからは、最低2回以上の机間巡視が必要になります。
 1回目の机間巡視は、ルールがちゃんと浸透しているか、子どもたちがエクササイズに入り込んでいるかを確認します。そこで、そうなっていないことが確認できれば、すぐさま介入&支援です。もちろん、ルールを理解していない場合は、その事をダイレクトに指摘するのもありですが、あえて、違う話題で声かけをすることがあります。それは、ちょっとしたきっかけで、子どもの作業がはじまる場合があるからです。たんに教員が近づいていくだけでも効果がある場合もあります。つまり、子どもの活動を子ども自身がやるいうことを尊重していくということなのです。「何してるの?」とか「なぜやらないの?」と直に言ってしまうと、その場の子どもの姿勢を矯正してしまうことになってしまう場合があるからです。そうなるよりは、あえて、自分が入っていないことを子どもに気づいてもらったほうが、子ども自身の気づきへのプロセスが近くなっていきます。
 2回目以降の机間巡視は、作業の進展具合を確認し、子どもの気づきをできるだけ拾い上げるために行います。学級全体の気づきを深めることができるかどうかは、この机間巡視にかかってきます。日常生活の中で見えなかった部分や、教員も驚くほどの独創的な想像、仲間に対する気遣いや、仲間をまとめていこうという行動、等々、エクササイズの中は、教員の気づきの宝庫なのです。教員はその時、いちいち声をかけてもいいのですが、うなずいたり、肯定の気持ちを「へー、そうなんや」というような自分自身への言葉であらわしたり、子どもと目をあわすだけでも、充分指導者としての受けとめを果たしています。このような教員の数々の気づきが、ふりかえり&シェアリングで生きてくるのです。



6)
子どもたちの中で起こったことをとりあげる

 授業のねらいに応じた出来事が、子どもたちの中で個々の単位やグループの単位で発生します。教員はその一つひとつを心にとめ、それぞれの出来事の本質を見極めながら、全体の場で取り上げていきます。子どもたちによるふりかえりにより言語化された気づきや授業中に起こった出来事をトータルして、子どもたちの気づきとしてビルドアップしていきます。教員は授業のねらいに引っ張られ、そのねらいが固定観念となった予定調和的な取り上げ方やミスリードに陥ってはいけません。

 いよいよ、授業の中で最も重要であると言える「ふりかえり&シェアリング」に入っていきます。なぜ、最も重要であるかというと、ここで子どもたちの中で起こったことが子どもたちに認知として降りてくるからです。「降りてくる」という表現は変に感じらるかもしれませんが、子ども一人ひとりが、自分の気づきを表現していくことで、学級という集団のもとに一つのものがふぁーとあらわれます。教室という空間に、子どもたちの気づきの総体が降臨してくるというイメージです。気づきはねらいに沿ったものであろうが沿ってないものであろうが、あまり関係ありません。むしろ、教員がねらいとして想定できていなかったものが現れたほうが、深い学びにつながることもあるくらいです。そのようにして出現した気づきの総体に対して、子どもたちはそれぞれの認知を下していきす。このプロセスが、「認知」→「行動」→「評価」のスパイラルとなって、次の「行動」へと引き継がれていきます。次の「行動」とは、子どもたちの日常生活へつながることであり、次の人間関係学科の授業へつながっていくことでもあります。
 つまり、ここで教員や指導者が持たなければいけない姿勢とは、子どもの気づきを全て肯定的に受けとめるということなのです。しかし、現実問題として、実はこのことが教員にとってかなり難しいということがわかっていただけるでしょうか。学校の教員は、常に目標とねらいというgoalに縛られています。そして、それを達成するためのルールを子どもたちに守らせることが職務であるように思い込んでいることでしょう。これは、正しいことではあるのですが、実は、大きな弊害を生み出しているのです。それは、「目標とねらいに沿ったものだけが答えである」という固定観念です。指導案に定められたねらいに沿って、「子どもたちを導いていかなければならない」という間違った義務感です。子どもたちの気づきに対して、その気づきがねらいに沿ったものであれば、「そうやねぇ、よく気づきましたね。」と満面の笑みで答えるのですが、もし、ねらいからはずれたと感じた気づきや、想定外の気づきに対しては、「えっ」とか「そんなことはないでしょう。」とか、そこまでいかなくても「はい、はい」と軽く流してしまおうとするのです。このうな雰囲気に支配された教室の中では、どういうことが起こってくるのでしょうか。子どもたちは、きっと「先生は、どんな答えを望んでいるのだろう。」と教員や指導者の顔をうかがい、自分の気づきに正直になれず、間違っていると感じた気づきを無意識のうちに自分の中から消し去ってしまうのです。このような状態は、教員や指導者のモデル性が高い小学校の低学年くらいでは、ある程度必要かもしれません。しかし、それも「ある度」というレベルです。一人ひとりの子どもの気づきは、一人ひとりの姿やあり様を反映したものなのです。教員や指導者がしなければいけないことは、その一人ひとりの姿やあり様を理解することからはじめるべきなのです。子どもたちの気づきを肯定的に受けとめることは、教員や指導者の一瞬の行動であらわすことができます。決して手間がかかったり大変な事ではありません。要はできるか、できないかなのです。そして、教員や指導者が子どもの存在というものを大切にしているなら、必ずできることなのです。




7)
授業でビルドアップされた気づきを大切にする

 一つひとつの授業を通じて積み上げられた気づきを、子どもたちに日常的にフィードックさせるために、掲示物等を使って可視化したり、通信等を使って発信していきます。このことにより、好ましいあり様というものを、子どもたちの中に無意識的に意識化し、規範化させていくことが必要なのです。

 ふりかえり&シェアリングで授業は終了しますが、ふりかえりシートに書きしるされた子どもたちの気づきは、一つひとつの授業ごとに積みあげられる財産です。もちろん学校ですから、学校のルールやきまりはあるのがあたりまえですが、そんな既存のルールやきまりは子どもたちの中から湧きでたものではなく、子どもたちには「与えられた」ものであるのです。しかし、人間関係学科の授業によって積みあげられた気づきの中からは、好ましいと感じられる規範的なことが多く含まれます。「相手の目を見て話をするって、すごく大切だと感じた。」「アサーションは難しいけど、普段の生活の中で使えるようになたい!って思った。」等々。ソーシャルスキルに関する部分から、人間関係をつくっていく力に至るまで、トータル的に子どもたちの気づきが拾い上げられ、子どもたちの内側からの規範醸成という形で出来上がってくるのです。自己肯定感や自己効力感と呼ばれているものは、人間の内側から育っていきます。つまり、小さな心が大きな心へと育っていくプロセスであると言うことができます。実は、このプロセスが、気づきを積みあげていくことによって実現されていくのです。
 教員は往々にして、子どもを操作するためのアイテムを使いたがる傾向があります。つまり、学習した、あるいは確認した事柄を、子どもの「指導」に使ってみたいという性のようなものを持っているのです。ですから、子どもどうしの中でトラブルがあったりすると、「人間関係学科で何を学んできたんだ!」と叱責してしまうのです。こうなってしまうと、それまで積みあげてきた子どもの気づきによる規範というものが、音をたてて崩れていくのです。もっとも、そんなあり様の教員のもとでは、なかなか子どもどうしの中の規範化はむつかしいのですが・・・。
 このようにして、子どもたちの中でできあがってきた規範というものは、子どもどうしの関係性を強め、お互いの相互批判により切磋琢磨し、取組への相乗効果を発揮していきます。もちろん、不登校への道を進んでいる仲間には、適切な言葉かけや支援を行い、いじめなどが起こりそうになれば、当事者に適切なフィードバックを還して、いじめの進行を抑制します。かりに、自分たちの手に負えないと判断したときには、教員や指導者に対して助けを求めてきます。自分や自分たちの周辺で起こっていることに対して、人の責任にしてしまったり、傍観者としてあらわれるのではなく、自分の問題として責任をもって行動をとろうとするのです。そして、自分や仲間の将来をも考え、自分の生き方と生き甲斐というものを統一して考えることができる人へと成長していきます。まさに、人間関係学科での学びの醍醐味はここにあると言っていいでしょう。教員や指導者に、特に、きわだった特技を必要としません。また、教員や指導者はスーパースターでなくてもいいのす。自分自身の成長のプロセスを、子どもの成長のプロセスとリンクさせ、子どもに対して適切な支援ができればいいのです。

 最後の「教員の資質」の項目でもう少し深めていきましょう。


教員や指導者に求められる資質
    
 
 ・開かれた人間であるということ
 ・アサーティブなあり様であるということ

 ・相乗効果を発揮できるということ


 さて、いよいよ人間関係学科に関する最後の項目となります。ここでは、これまで述てきた人間関係学科のなかみで、子どもたちへの支援を可能にする教員や指導者の資質いうことにふれたいと思います。実は、前項の「教員や指導者に求められる力」のところで、だいたい書きましたので、まとめとして、その教員や指導者の力とは、どういう人の資質から導かれるのかということを展開していきたいと思います。


 ・開かれた人間であるということ
 「マネージャーにできなければならないことは、そのほとんどが教わらなくても学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始めから身につけていなければならない資質が、一つだけある。才能ではない。真摯さある。」(『エッセンシャル版 マネジメント 基本と原則』P.F.ドラッカー ダイモンド社 P130)これは、マネジメントの神様と呼ばれているドラッカーの言葉です。この言葉は、2010年に200万部以上のベストセラーとなった『もしも高校野球の子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(岩崎夏海著 ダイアモド社)の冒頭の章で紹介されて多くの人が知ることになりました。実は、この言葉に、一つ目のキーワードが含まれています。ドラッカーは言います。マネジメントを実行するとができる人の資質とは「真摯さ」であると。「真摯さ」とは、いったい何なのでしょう「素直さ」「正直さ」「まじめさ」「熱心さ」等々、様々な説明の言葉をはめることができますが、本質的には人間のあり様をあらわしているのではないでしょうか。それが「開かれた人間である」というあり様なのです。開かれた人間というのは、「認知」→「行動」→「評価」という成長のプロセスを実行している人であり、自分自身の人間としての枠組を、他者からのフィードバックを通じて、拡げていこうとしている人のことです。さらに言うと、固定観念や思い込みや被害者意識などのマイナスの要因により、成長のプロセスがストップし、他者(特に自分とは異質な人たち)を受け容れることができない人の対極にあるあり様です。ですから、開かれた人間とは、真摯に、そしてひたむきに、自分の成長のプロセスの道を歩みながら、他者の存在を受け容れることにより、さらにそれを自分の力へと還元してふくらんでいく姿なのです。「子どもの気づきに気づく」の項目でふれさせてもらったように、ねらいに縛られない柔らかい発想と、自分の枠組みの外に投げられた「ボールになるボール」をも受け取ろうとする姿を備えた人なのです。そんな人なら一度はそんなボールを受け損ねたとしても、次かその次には受けとめる事ができる力をえていることでしょう。一方、「閉じられた人間」とは、一つの発想や概念にとらわれ自分のストライクゾーンでしか投げられたボールを受けとめることはできません。そしてはずれてしまったボールを投げた人を攻撃するか、外に投げられたボールの存在を自分の概念の中で、無視したり抹殺したりしてしまうのです。この両者の違いは、感じる以上に拡大していきます。それは、あたりまえです。10年かかっても成長しない人と、10年かけて成長してきた人との差は、時間が経ていくごとに開いていくのですから。
 このように、示唆的な言葉をいただいたドラッカーですが、実は、ドラッカーも考え違いをしている部分があるようです。それは、「真摯さ」というあり様を「後天的には獲得することのできない資質」と規定しているところです。「認知」→「行動」→「評価」の成長のプロセスに乗り、しっかりと自己を認知することさえできれば、誰もが「真摯さ」を得ることができるのです。基本的に年齢は関係ありません。ただ、まわりの人たちのモデル性により、その状況は異なってきます。まわりにいる人たちが「閉じられた人」ばかりであれば、超高確率で、その人は「閉じられた人」になってしまいます。しかし、まわりに「開かれた人」が一人でもいるなら、その人は「開かれた人」になれる可能性があります。「開かれた人」へのモデル性とは、別に直に接していなくても大丈夫です。ただそのモデル性は薄まりますが、書籍を通じてであったり、映画を通じてであったりという出会いでも可能なのです。まあ、しかし、身の回りに「開かれた人」がいることがベストです。そして、いったん「開かれた人」になることができれば、努力を怠らない限り「閉じられた人」に転落してしまうことはありません。ここに、教員や指導者が「開かれた人」であるべき意義があります。人間は絶対的な依存状態から、主体的なあり様へと成長しいく可能性を誰もが備えているのです。それは、人間にしか与えられなかった、大脳新質というものがなせる技なのです。ほんとうの人間らしさとは、「開かれた人間」になることから追求していくことができるのです。



 ・アサーティブなあり様であるということ
 そして、人間の成長というものは、次の段階へ進んでいきます。開かれた人間である人は、人間の多様性というものを認め、受け容れることができます。そして、その多様性を受け容れることで、自分自身の人間としての枠組みを拡げていきます。つまり、心の大きな人間になることができるということです。心が大きく成長した人は、そうでない人を許すことができます。攻撃的なあり様の人が、アサーティブなあり様の人に何らかの攻撃的な行為をとったとしても、アサーティブなあり様の人は瞬時に反応することはありません。いったん、自分の中に納め、心のスペースをしっかりとつくり、様々な技法を駆使しながら直接的に、あるいは間接的にフィードバックとして還していきます。相手の目をしっかりと見つめて、時には優しい言葉で還していきます。実は、この時点で、攻撃的な行為に至った相手を許していることになるのです。そして、許された相手には、多くのケースで気づきが起こります。その気づきとは、攻撃的なあり様を示してしまったことへの自分自身のフィードバックなのです。俗に言えば「反省」ということになるのかもしれません。実は、こういうアサーティブなあり様が、森田洋司氏が提唱した「いじめの4層構造」おける「仲裁者」の姿なのです。これは、受身的なあり様を示す人に対しても同じことです。アサーティブな人は、人間どうしの関係で、力関係の不均衡による力に立脚した攻撃性をあらわすことはありません。つまり、人間の関係を「強い」「弱い」で見ないといことなのです。弱い相手だから、不躾な、あるいはぞんざいな、あるいは、いんぎん無礼な態度を取ることはありません。むしろ、そういう相手にこそ、繊細な配慮を施して慎重に接していくものなのです。アサーティブであるということは、相手のことを想像できるがゆえに、共感する心をもつことができるのです。そして、共感できるからこそ、対等平等の関係性をつくっていこうとします。そのためには、相手と折り合いをつけることが必要ですし、そのために主張をしなければならないのです。
 教員や指導者は、子どもとの関係以上に、教員どうし、指導者どうしの関係性に、このアサーティブなあり様を発揮できなければいけません。それは、教員どうし、指導者どうしであるからこそ、折り合いをつけ、好ましい関係性を構築するべきなのです。それは、教員や指導者が、子どもにとって、ほんとうに身近な大人としてのモデルであるからです。



 ・相乗効果を発揮できるということ
 人間の社会というものは、様々な矛盾を抱えながらも、幸せな生き方ができる社会へ向かって進んでいます。これは、人間の歴史をふり返れば明白な事実です。二歩前進、一後退、三歩前進、二歩後退、その結果二歩進みました、というような感じです。これは人間にしかできない力がそこに備わっているからです。人間は協力し、力を合わせ、数多くの創造物を残してきました。そして、その多くが人間の幸せな生活を実現するためのものであると言えます。
 アサーティブなあり様の人は、ものごとに対して、決して一人でやってしまおうとは考えないものです。ものごとの初期の段階では、孤独であったり、自分一人で取り組まなければならないこともあります。しかし、アサーティブな人のまわりには、必ず人が集まってきます。それは、アサーティブな人は自分の長所と短所がよくわかっているので、自分ができない部分については、まわりの人に助けを求めたり、協力を求めたりすることができます。あるいは、みんなの課題であることをちゃんと主張し、まわりの自主性を引き出すこともできるのです。そして、そんなアサーティブなあり様の人たちが出会うことで一つのプロジェクトに対して、ともに取り組むことができるようになります。そこに、相乗効果というものが生まれてきます。この相乗効果というものの力には計り知れないほどの力があるのです。そして、そのプロジェクトをやりきることにより、達成感や自己力感などがフィードバックとして還ってきます。このようなプラス指向の前向きな関係というものが、所属する集団の質というものを高めていくのです。これは、教員や指導者の集団でも同じですし、子どもの集団でも同じことが言えます。まず、教員や指導者の集団がモデルとなり、子どもの集団へのモデル性を発揮していくということなのです。これが現代的な「集団づくり」であると言えるでしょう。集団の理想というものが先にあり、そこに個人をあてはめていくという手法というものは、アサーティブネスの思想に反することですし、そんなことは人間の成長にとってどれだけマイナスになるかわかりせん。あくまでも、一人ひとりが成長することによる集団形成が、実は集団の力であるという考え方こそが、アサーティブネスの思想に基づいたものなのです。
 つまり、人間関係づくりの授業=人間関係学科に取り組もうとしている方々は、開かれた人間をめざし、アサーティブなあり様を追求することで相乗効果を発揮しようとしてる人をめざしていくべきなのです。

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